幾多ものサイコが人を殺め、何人ものキャラクターたちが同性で愛し合いそして幾多ものストーリーを紡ぎ出していく。
魔法少女まどか☆マギカで暁美ほむらは時間遡行を繰り返して「何度もやり直す」過程でとてつもない因果をまどかに重ねてしまった。
ではアニメを作り続けた業界はどうなのだろうか?つねに新しい”何か”が求められて行く。製作者も視聴者もそんな繰り返しに《大切ななにか》を失ってしまっているのではないでしょうか。
誰も愛したことがなかった少女・松坂さとう。
そんなさとうが初めて愛した少女・神戸しお。
寄り添う二人の少女、甘く幸せな生活。
それを脅かすものを――松坂さとうは許さない。
愛のためなら脅迫も監禁も殺人さえも。
甘くて痛い、真実の純愛サイコホラー。
ハッピーシュガーライフ(公式サイト)
今回紹介する「ハッピーシュガーライフ」は30分枠で2018年夏アニメ枠にて放映された純愛サイコホラーアニメだ。
まず、最初に確認しておくべきこととして今作が「サイコホラー」アニメで間違いないということを挙げておく必要がある。この手の作品は苦手だけど「純愛」とついてるし…などとあまい気持ちでこの深淵を覗き込んだあなたを待つのは計り知れない後味の悪さだけだ。
なんせこの作品、闇しかない。
炎上するマンション。屋上で手を取り合う二人。
「これは私達、二人の愛の物語だ。」
ただ、私は個人的に病んでるキャラと百合は好きなので放映前から今作をマークしていた。だがPCの故障やいろいろな事情が重なってあまりアニメ鑑賞や感想を書き綴っている時間がなかったりして夏アニメを消化しきれず、今になって全話を一気に視聴している。
そして、私は今作をその様な形で見ることが出来て良かったと思った。やはり12話を完結まで一気に駆け抜けられるというのは素晴らしく特に今作の様に「途中から結論も見えてくる」作品においては結局予想通りなのかそれを裏切ってくるワクワクものの作品なのか、それと細かい描写はどうなのかということを待たずにすぐ確認できるのでストレスをあまり感じずに済むからだ。
加えてこれも挙げておかなくてはならない本作の特徴として今作が「純愛」・「サイコ」・「ホラー」・の他に『ゲスいアニメ』という特徴をともなっているということを挙げなくてはならないだろう。
とにかく登場人物や行動が人間の負の感情に焦点を当ててそれを強調してさらにそれを映える様に部分部分だけを意識して構成,演出されているのでそういう点において制作陣の思惑は反映されていて成功といえるかもしれないがどう考えても「視聴者を選ぶ」アニメとなってしまっている。
冒頭にも述べた通り、この手のサイコキャラやゴア表現が溢れたアニメの世界で感覚が麻痺しているひとならともかくそうでない人にとってはきっと相当ヘビーな作品に映ってしまうことだろう。
それならば、そういった『世界』に慣れ親しんだもはやサイコな視聴者の皆さまにとって今作が両手を挙げて歓迎できるものであるのかというとそういう訳でもない。
そういう視聴者の内の一人であると自覚している私が今作についてあまり良い評価をしていないのだ。
まず、セリフが抽象的すぎる。それは世界感としてはありなのかもしれない。実際に最後まで視聴してみればセリフに限って言えばこの歪んだ少女たちの物語に合った言い回しとも言えるのかもしれないが、それに加えて稚拙かつ露骨にゲスな環境と”やりすぎていて”正直なところ、キャラに愛だとか瓶だとか詩的に見せようとするセリフを喋らせたところであまりリアリティを感じることができず、感情移入したりその世界観に浸ることができず何か冷めた気分になってしまうのだ。
そうなってみて今作を振り返ると、この作品はヤンデレを使ったホラーを書きたいという欲望丸出しの駄作に見えてきてしまう。
やりすぎだとリアリティは感じない。たまにぐらいがちょうどいい。
ただ、今作をかなり押す人もたくさんいるし、それにうなずけるぐらいの良シーンやストーリーのつなぎ方を感じるところも多々あった。今作は割と『特定の』場面だけを切り取れば良く映えるところもあると思う。
だが、映えるシーンを適当につなぎ合わせれば良作が出来上がるのか?という問いに「答えは違った」ということを教えてくれる「なにか本来の作品の見るべきところではなく、アニメ制作における大切なものはなにか」というのを考えさせられるような作品になってしまった様に感じた。
少し脱線してしまったが、話をストーリーに戻すと今作は二人の少女の出会いと愛の形が主軸となって進むものとなっている。
第一話でも登場し、前述した通り
炎上するマンション。屋上で手を取り合う二人。
「これは私達、二人の愛の物語だ。」
というところから物語は始まる。これ、ある程度アニメを鑑賞していて視聴すればわかると思うが、この1話の冒頭シーンが12話につながっていて炎上するマンションで二人が「これは私達、二人の愛の物語だ。」と語るその瞬間までの振り返りを11話分かけて描くという構成になっている。
その中でもアニメ作中で主だった視点で描かれる主人公とも言えるのが松坂さとうさん。通称「さとちゃん」だ。
まあ、アニメのお約束と言わんばかりに主人公はピンクの髪でピンクの髪はどこかが「壊れている」ことが多いのだが、今回もその例に漏れずどこかといわずほとんど「壊れていて」いて作中で完全に壊れる。
個人的なこだわりなのだが、百合作品はどうせ「百合」っていうファンタジーを見るのだから男と絡んでいたとかいう”余計な”現実はいらないという嗜好をもつ私にとって、もともと男遊びをして取っ替え引っ替えいろいろな男と絡んでいたというビッチピンク髪キャラということでもう今作がどれだけ頑張ろうとも私にとっての評価はマイナス100ポインツとなってしまっている。
そんなさとちゃんは現実の辛さを味にたとえて表現している。幸せなら甘くて苦しかったり嫌だったりしたら苦いのだ。
そして辛く苦しい現実の「苦さ」から解き放たれて唯一幸せな「甘い」一時を与えてくれるしおちゃんとの時間を「私達のハッピーシュガーライフ」と呼んでいてそれがタイトルにつながっていた。
さとちゃんは外での苦い苦い味を幸せの「甘い」キスで上書きすることで満たされていた。
私も幸せの甘いキスで上書きしたい。
そしてそんな主人公のさとちゃんのお相手である神戸しおちゃん、通称「しおちゃん」の紹介も外せない。そして辛く苦しい現実の「苦さ」から解き放たれて唯一幸せな「甘い」一時を与えてくれるしおちゃんとの時間を「私達のハッピーシュガーライフ」と呼んでいてそれがタイトルにつながっていた。
さとちゃんは外での苦い苦い味を幸せの「甘い」キスで上書きすることで満たされていた。
しおちゃんはロリっ子で完全に小学生か中学生といったところの見た目だ。あと、八重歯がかわいい。さとちゃんがしおちゃんのことを「無垢で純粋でかわいい」と評する様に純粋な存在として無邪気な姿を見せてくれる。基本的にさとちゃんの”苦い”外の世界には出ることがなく中で過ごすこととなる。
その純真さ故にさとちゃんだけでなく後に紹介する三星 太陽くんをも虜にする「ある意味」才能の持ち主でその純粋さで今作に安らぎを与える一方で登場人物を無意識のうちに追い込み、より狂わせていく元凶ともなっている。
そんなしおちゃんも闇を抱えていてそれは家庭環境が原因となっていた。
作中で徐々に明らかになって行くのだが、父親がアルコール依存症で家庭内暴力を繰り返し、兄と別れて母親と家を出て二人で暮らすがその母親もいままでの家庭内暴力からのストレスで過保護になりすぎていてかなり厳しくしおちゃんに当たり散らすようになり、最終的には精神的に追い詰められて参ってしまった母親から捨てられてしまうという経験している。
ちなみにこれは大切なことなのだが、しおちゃんの脱ぎたて靴下はミルクの香りがするらしい。
そしてしおちゃんが捨てられてしまったところで偶然「さとちゃん」と出会ったのが二人の愛の始まりとなる。それはまた、狂気の始まりでもあった。
そんな”ふたりの愛のお城”である1208号室にも闇があった。この二人の住んでいる部屋自体も可怪しなことになっているのだ。
彼女たちの家には何重にも鍵がかけられている部屋があってその中には大量の血痕と3袋分の遺体袋が置かれている。ストーリーが進むと遺体袋は処理されてあらたな死体が増えることになる。
最初は視聴者のミスリードを誘うような演出もあり、両親と叔母さんを殺害して切断したものかと思われたが作中中盤以降、叔母さんは生きた姿を見せてくれる。ではこれは一体誰の遺体だったんだ!?となるのだがこれも作中で明らかになるのでその目で見て楽しんで見てほしい。
ちなみに私は1208号室のお兄さんが一番リアリティのあるサイコキャラだったのではないかと思っている。
ここで一つ考察を加えておかなくてはならないのだが、今作において「さとちゃん」×「しおちゃん」は百合であるのかどうかということについてちょっと考えて見よう。
たしかに、二人は夜になると誓いの言葉として「病めるときも健やかなるときも喜びのときも悲しみのときも富めるときも貧しいときも死が二人を分かつまで私はさとちゃんがだいすきなことを誓います。」と愛の誓いを立てたり
お互いのことを「好き」といったりするのだが、幾多もの百合作品を見てきた私からすると今作を百合作品である、もしくは「ほとんど」百合作品であると認定するのは早まった行為なのではないかと思っている。
まず、第10話で「死ぬときは共犯者でいさせて」とついに「死が二人を分かつまで」という条件すら外れて”永遠の愛”になったことから女の子同士が「愛を誓い合う」という百合作品のうちの一条件を満たしているようにも見えるのだがこの「愛」がいったい「どんな」愛なのかということを考えなくてはいけないのだ。
このふたりのいままでの環境や幼さ、儚さ、脆さを考えれば考えるほど「好き」や「愛してる」という言葉は百合的意味合いにおいて「薄くなり」、それ以外の愛の形として、例えば家族愛であったりそういうものとしてどんどん重く恋愛やそれに近いような愛の形とは違うなにかとしての面が強くなっている。
今作における百合ポイントとしては「さとちゃん」と「しおちゃん」よりもバイト先の後輩ちゃんがさとちゃんを探っていてそれがさとちゃんにバレるシーンが挙げられる。
後輩ちゃんは誰もいない更衣室でさとちゃんの服の匂いをクンカクンカ。わかる。わかるよ。やっぱり嗅がないと始まらなないもんね。
そしてメンヘラにあこがれて狂っていく可哀想な後輩ちゃんがさとちゃんに住所を問いただそうとしたところ、口封じにさとちゃんから熱くて濃厚なキス。そして体をさわさわ。
そしてこのシーンが今作においていちばん価値あるシーンといえるかもしれない。
先程述べた通り、今作の流れや演出などを考えると今作における主軸は「欲望」だったり「愛」でも百合的なものが歪んでいくというわけではなく普通に「愛」の形をテーマにしたものの様に見えるので、私は今作をほとんど「百合作品では”ない”」と位置づけたい。
「どんな欲望でも全部飲みこんであげるから。だってさとうちゃん、それが愛だから」
そう考えるとこの叔母さんの言葉は今作のコンセプトのうちのひとつを表しているのではないかと思う。今作はあくまで「子供」であるさとちゃんやしおちゃんの歪んだなかにも垣間見れる純粋さとその二人が脆く儚い愛を育むという作品を目指していたのではないかと思う。
そしてそれは半分達成されて半分失敗していると感じた。
詩的な表現をや世界の薄汚さや美しい一瞬をお菓子の甘さや「味」に例えるさとちゃんはやっていることはかなり汚れていて腹黒くてもどこかに幼い印象を植え付けることに成功している様に感じる。だがその一方で前述した通りリアリティそのほかの作品を「面白く」させるために必要なパーツを欠落させてしまってもいるのだ。
また、今作に登場する犠牲者のうち、1208号室の素敵なお兄さんや不良の少年たちはともかく、友達のしょうこちゃん殺害とそれにまつわるストーリーはすこし踏み込みすぎているように感じた。
今作において主人公の唯一の昔からの馴染みで中の良い『親友』枠のような存在として登場する飛騨しょうこちゃんは気さくな女の子で。人当たりも良いしあまり欠点らしい欠点が見つからずに親に反発して男遊びに走っているというまあ今作で見ればまったくもって”問題ない”レベルの非行レベルで抑えられている良心枠のうちの一人といって良いのではないだろうか。
そしてまた、同じく良心枠のうちの一人としてしおちゃんの兄である神戸あさひくんもしょうこちゃんを語る上では外せないだろう。
彼はしおちゃんが母親と一緒に家を出るときにそのあとモンスターと化した父親が母親やしおちゃんを追って来ないように抑える役目を担って悪魔(父親)の住む家に残ったのだが父親の死をきっかけに”母が捨ててしまった”しおちゃんを探して街をさまよい始めていた。
ここでしおちゃんが”絶対”で家族であっても自分より近い存在を認めたくないさとちゃんとその友達のしょうこちゃん、そしてそんなしょうこちゃんとあることをきっかけに仲良くなったしおちゃんを探す兄であるあさひくん、さらには汚されてしまった太陽くんの欲望、思惑、行動が交錯して後半の物語が進んで最終回のマンションからの飛び降り心中に繋がって行く。
ちなみに太陽くんについて軽く紹介しておくが、彼はさとちゃんのバイト先のひとつで一緒になった普通の男の子なのだが、さとちゃんに好意を抱いて告白したことをきっかけに嫉妬した女店長(年上)に無理やり監禁されて犯されたことで年上の女性が苦手になってしまい、自らを汚れた存在として蔑む様になってしまう。そして偶然見つけた”純粋な”少女しおちゃんの人探しポスターを見てしおちゃんを崇めることになる。
そして彼は幼女に興奮し、「いたいのいたいのとんでけ~」をしてもらうことで興奮する様になってしまった。泣きながら『他の汁』も垂れ流している姿はなかなか見応えがあった。
太陽くん…きみ、ピュアになりたいみたいだけどどんどん汚れていっているよ。
話を戻して、作中後半では偶然が重なってさとちゃんの友達であるしょうこちゃんとしおちゃんの兄であるあさひくんが接近するシーンがあるのだが、ここでも『やりすぎてしまった』様で後半のあさひくんの心情描写は濃すぎて逆に引くレベルだったし、それに加えてしょうこちゃんとのちょっといいムードまで描いておいてからのさとちゃんにヤラれてしまう流れはどちらにせよ良い結果を残さないものだったのではないかと思う。
確かにこの二人が接近することによって物語は進行したし『必要』だったのかもしれないが、接近するだけで良くて今作の主だったコンセプトである「歪んだ愛やサイコ」とはかけ離れた純粋な愛の様なものをわざわざここで芽生えさせて破壊するというのはゲスすぎるし、そのゲスさがなくて結果敵なものだったとしたら完全に蛇足の展開でこの段階をどう今後回収するのか気になるぐらいに扱いづらいものをなんとなくの”流れ”で作ってしまったなあと感じたのだ。
そして最終回になると冒頭シーンに戻って二人で炎上するマンションから飛び降りてENDとなるのだが二人そろって死ぬことはなかった。それも偶然ではなく片方が自らの意思でもう片方を残すという結果になったのだ。
そうして残された少女が残りの人生をどう歩んでいこうと考えているのか、他の登場人物はどうしているのか少し後日談も描かれている。
ここはぜひとも視聴してその目で確かめて見てほしい。
とりあえずさとちゃんの叔母さんのブレない笑顔が輝いて見えた。
「あら?は~い、私がやりました~♪」
愛とはなにかを語り始めて歪んだ感情、そして思惑が交錯し、ひとそれぞれの狂った愛の形を見ることのできる作品だった。
今作はその作画や作中の題材によって重い展開はあるものの重くもなりすぎず、そういったモノが好きな視聴者からすればもっと重い作品は他にもあるし今作にピンポイントで心を掴まれる視聴者は数少ないかもしれない。
それでも、作中でストーリーが破綻することもなく作画が崩壊することもなく、また放映が打ち切られることもなく狂ったままの世界を見せてくれる本作。
その深淵を覗き込みたい人にはぜひともいちどその目で確かめてみては如何だろうか。
最終話を視聴後にガヴリールドロップアウトを勧めたAMAZONはグッドジョブ。
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